備忘録あるいは魚拓

色々書くことがあって欲しい人生

雑記

やってみたいことがざっくばらんに目の前に散乱してて、何から手をつけようかと迷っているうちに何も出来ないままでいることがあったりなかったり。そんなことが続くとやってみたいことがあるというよりは、やってみたいことがある人間をやっているだけで、実際は何にも興味を持てていない。なんて思考に陥りがちですね。大抵はどれもやってみたいことであると自分の心に従って言えますが。自分の心に従っている、本当にそうなのか?つくづく思いますが結局それも自分次第。自分の内面を如何に理解するか、相当な難題ですね。気にしないで生きていく、それもありなのではないかと思いますけど、逃げていてもいつかの時点でぶつかる問題ではあるとも思っています。

一つの手としては言葉にしてみること。とは言うものの、自分の内面について文字にしてみるというのは中々難しい。難しいけれど、内面を何で表すかといったら言葉しかないような気もするんですよね。内面、なんていうモヤモヤしたものを切り分けていかなければならないのだからそれはやっぱり言葉の役割。こう書きつつも本当に言葉にしてしまっていいのか、みたいなことも考えたり。とゆのも結局、言葉にする以上、自分(あるいは他人)の裁量である部分は強調され、違う部分はなかったことにされ、なんて自体が十分ありうるのですから。例えるなら音楽評論家ですかね。あの人たちも(きっと、これは勝手な想像ですが)自分の裁量で音楽という曖昧なものを言葉に落とし込めて、言い換えれば音楽の次元を落としているとも言えるのでしょうか。こういった危惧もあったりするんですけど、それでもやはり言葉に頼らざるを得ない、言葉にまでしないと人には分からない。いや他の人のことは分からないんですけど自分にはとにかくそうなんですよね。先の音楽評論家の例を取っても、評論家本人たちにとっては音楽そのもので何かしらを感じ取れるのかもしれません。仕事上、感じ取ることの出来ない人間にどうにかこの「感じ」を伝えようと不完全ながらも言葉に頼る。十全でなくても、何かしらを見落としてても、大事な核となる部分だったり輪郭だったりそういったものはしっかりと言葉で掬うことが出来るもので(そう信じてるとも言えますが)、それが出来ていれば多少の誤差は気にしない方向でいいのではないでしょうか。